ナチス親衛隊大尉クラウス・バルビー

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ナチス親衛隊大尉クラウス・バルビーは大戦中、占領地フランスのリヨンでナチス親衛隊保安情報部長の地位にあった。 彼はレジスタンスの活動家を容赦なく処刑し、人々から “リヨンの屠殺人” と恐れられていた。 戦後、アメリカ陸軍情報部(CIC)はクラウス・バルビーを対ソ連諜報活動に役立つ人物と判断し、諜報員として雇った。 フランス政府の度重なるクラウス・バルビー引き渡し要求にもかかわらず、アメリカ政府は引き渡しを拒否した。 クラウス・バルビーはアメリカ陸軍情報部の用意した偽装書類を使い、カトリック教会の庇護のもとに1951年4月にボリビアに入国した。 クラウス・バルビーは1957年にボリビア国籍を取得し、この後、数十年間に渡って、ボリビア軍事政権の庇護とアメリカ政府の庇護のもとに、ドイツ系ボリビア人「クラウス・アルトマン」として、ボリビア軍事政権の治安対策アドバイザーを務めた。 また、彼は南アメリカにいる元ナチ党員と連絡を取り、武器取引会社を設立し、ボリビアの億万長者となった。

1972年の新年早々に南アメリカ・ペルー共和国の首都リマ市で、或る殺人事件が起きた。 被害者はリマ市の網元のロッシという名の富豪であった。 リマ市警察は、殺されたロッシの知人で、ビジネスで取引関係のあった男をこの事件の被疑者として逮捕した。 リマ市警察は、この男がヒトラーのボディーガードをしていた親衛隊員で、イタリアから指名手配を受けているフリードリッヒ・シュベンドであることを突き止めた。 リマ市警察は更に、ロッシやフリードリッヒ・シュベンドと組んで貿易商を営むボリビア男にも眼をつけた。 そして、この男がフランスの大審院によって死刑を宣告されたナチス親衛隊大尉クラウス・バルビーであることが判った。 こうして、ロッシが殺された事件は思いがけない方向へ発展した。 ロッシが殺されてから凡そ5ヶ月後の1972年4月27日、リオデジャネイロでクラウス・バルビーの協力者が死体となって発見された。 この男は戦時中にクラウス・バルビーの活動を支援していた罪で、フランスの大審院によって死刑を宣告されていた。 この男の死体が発見されると、クラウス・バルビーは公然と姿を現わし、自分の正体を認めた。 そして、ボリビアのテレビ放送に出演して、ナチス親衛隊員の過去を礼讃した。 世界中のマスメディアが騒然となり、報道関係者がボリビアに殺到した。 クラウス・バルビーは報道関係者に『回想録』を売りつけ、戦後、西ドイツの「ゲーレン機関」と連携していたことを暴露して、世界を驚かせた。 クラウス・バルビーは戦争犯罪と考えられる如何なる行為にも関わっていないと強く主張した。「戦争は戦争、そして戦争のときには誰もが殺人者になる」というのが彼の口ぐせだった。 アメリカCIAによって守られていたクラウス・バルビーの特権的地位は、1982年にボリビア軍事政権が倒れると同時に崩れた。 1983年、70歳になったクラウス・バルビーはフランスに引き渡され、リヨンの法廷で終身禁固刑を宣告された。 この裁判において、クラウス・バルビーは「自分は、フランスがアルジェリアでやったのと同じことをしたにすぎない」と主張し、物議をかもした。 クラウス・バルビーは1991年9月に刑務所内で死亡した。

ナチスの戦争犯罪を追及するジャーナリストのクリストファー・シンプソンは次のように述べている。「アメリカの情報機関は、バルビーで大失敗した後も、ナチを工作員として使うことから手を引かなかった。 そして、アメリカの情報機関のナチ利用は拡大し、一層目に余るものとなっていった」。